AI時代に重要なのは技術かリベラル・アーツか? 『記号と再帰』の表紙をみて思ったこと。
リベラル・アーツ教育はなぜ見捨てられないのだろう?
簡単な話、リベラル・アーツ教育の定義が「それさえしっかりやっていれば、何が大切か分かる教育」とすることもできるからなのかもしれない。
しかし、僕はなんだか計算哲学の本からは違う答えが匂ってくる気がした。
田中久美子の「記号と再帰」を3年前に読んだときを思い出した。このコンピューター哲学の本は、哲学的記号論(ソシュール/パース)と、ラムダ計算理論やプログラミング言語設計を結びつけて面白い結論を出した本だった。
「基本的に関数は”一つの入力と一つの出力”に帰着できるが、再帰関数は関数名が必須となってしまうため”一つの入力と一つの出力と一つの関数名”までにしか帰着できない。そしてこれは二項関係と三項関係に対応する。三項関係はつまりネットワークだ。」
と要約できる主張だった。
この本は明らかにゲーデル・エッシャー・バッハの影響を受けていて、壮大な計算論が割り切れない哲学に回収されるところもどこか似ていた。(GEBは途中を読み飛ばしたこともあり、語れるほど熟読していない)
そして二冊ともなぜか、その視点自体が結論や経過よりも魅力的だったことを覚えている。その視点とは、再帰(フィードバック)構造とネットワークへの形式システムの拡張が知能の根源だと考える視点だ。
たぶん今AI界で活躍しているのはゲーデル・エッシャー・バッハを読んだ世代だと思う。そして今AIの中心的な議題として残るベイズ主義・フィードバック構造・創発・ネットワーク・平衝は全部数学・統計・計算機で回収できず、どこか割り切れない哲学が割り込んでいるカンジがある。
AI時代にこそ必要なのはリベラル・アーツなのではないか。そう思わせるものこそ、AI時代を作った書籍なんだよなーと思った。
だけど、「機械学習が今すごいから、お前ら全員古文をガリ勉しろ」っていうのは、なんか明らかにおかしい。たぶん「リベラル・アーツが重要」っていう思想の要約は「成熟した価値観を持て」ということでしかない気がする。それって学校で教わるものではなくない?というカンジもする。
この投資家の対談は面白いと思う。投資の世界では知能システムによる運用成績がヒトよりよくなってしまったことが有名だ。それも知りながらこのヒトはこう言っているのだと思う。
それに対してこの記事も面白い
どちらの記事でも共通するのは、「技術者は無視できない」という世界観と、「単なる技術者」に畏怖の念を覚えていないところだ。もしリベラル・アーツとやらが、技術も”成熟した価値観”も与える教育なら、ほぼ全員がそれを求めるところだろう。ひとつ言えるのは、そんな教育今まで見たこともないし、聞いたこともない。利害が絡んだ嫌な経験がない「綺麗なリベラル・アーツ」が成熟した価値観を与える気がしないし、技術力だけで社会の頂点にたてる「パワフルな技術者」も知らないから。
これほど、僕もふくめ全員がグチャグチャ悩むトピックだけど、一番すっきりする答えをくれるのは技術至上主義のシンギュラリティ論者だな。
だって彼らの主張は
「みんな将来脳みそにプラグぶっさすんだから、勉強なんて無駄無駄無駄」
だから。
ここでこのシンギュラリティ的な考え方には教養はないと感じる。なぜなら簡単に考えすぎて、慎重さが足らないから。そして思うのはリベラル・アーツっていうのはグチャグチャ悩む能力だってこと。つまりよく言えば「考える体力」みたいなのと関係がある。ホフスタッターも田中久美子もみんながどうでも良いって思うものを、数学・計算機と哲学についてずっとグチャグチャ考えて、あんなに非凡な成果をだしたんだなと思う。
リベラル・アーツが見捨てられない理由はもう簡単だ。
誰も頭にまだプラグをぶっさしてないなら、技術者だろうが投資家だろうがテクノロジー・エリートだろうがグチャグチャ考える必要があるからだ。
無駄っぽいことについてグチャグチャ考えることが許される世の中、それがリベラル・アーツ重視な世の中なら、大歓迎だな。だってグチャグチャこの文章を書いたんだから。